深くして行く。深く知る。

現在の人は「モノ」にも「職」にも困っていない。

その為、次々に乗り換える事が出来るし、飽きたら替えが利く。

「飽きたから変える。」

「合わないからやめる。」

もちろん

飽きたモノをいつまでも持ち続ける必要もない。

次々に新作は出るし、次々に流行は移り変わる。

ただ、そうなるとすぐに

「あの芸能人が・・・あの雑誌が・・・今の流行は・・・。」

合わない職をいつまでも続ける必要はない。

感性が合わない人もいれば、厳しく言われる事もある。

ただ、そうなるとすぐに

「自分の個性が発揮出来ない・・・合わない・・・やめる・・・」

余りに簡単にこの表面だけの判断軸が導き出される図式が私は理解が出来ない。

表面だけの判断で行動する度に【自分自身】は深まっているのだろうか?

【モノ】であれば
「なぜ自分はこれが好きなのか?」
「どんな部分に共感して購入したのか?」
「自分自身はどんな想いで選んだのか?」

【職】であれば
「自分は何を得てどう成長したいのか?」
「今の状況を自分はどうクリアーして、どうステージを上げていくのか?」
「自分自身はどんな想いで選んだのか?」

そこに立ち戻り、もう一度考えてみる。

クリアーする方法はないか。打開策はないか。

楽しめる方法はないか。楽しませるアプローチはないか。

そう考える事が出来るか出来ないかで判断の【深さ】が変わる。

【自分の事は認めて欲しいけど相手とは時間を共有したくない。】
【自分は相手を知る努力をしないけど、相手には察して欲しい。】

この論理は残念ながらいつまで経っても解決を生まない。

だからこそ、自分自身が進化する為に「深み」を求めるしかない。

つまり、人がどうこうではない。

自分が大切に想う。
自分がワクワクする。

この気持ちが浮かび上がる方法を考えるしかない。

その気持ちが浮かび上がる次の選択肢は希望に満ちている。

でも、「なんとなく」「なんか合わないから次」

こんな気持ちは何を手に入れても満たされないし、何を得ても人が気になる。

好きな事柄、好きな人、好きな自分を深くして行く。深く知る。

楽しさの根源は「探究心」だと私は思う。

好きの理由を探究しない自分に「嗜好」は来ない。

相手を探究しない自分に「感性の合致」は来ない。

自分を探究しない自分に「生き甲斐」は来ない。

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